1.夜明け前(創業者の誕生~創業まで)

亮吉氏 横浜商業補習学校卒業写真 創業者松村亮吉氏

亮吉氏 横浜商業補習学校卒業写真 創業者松村亮吉氏

明治三十二年(1899年)、創業者 松村亮吉は十五歳にして初めて横浜の土を踏んだ。そして、輸出絹織物商の安田林七郎商店に小僧として入店する。

安田商店を振り出しに、「働きながら勉強がしたい」という亮吉の強い希望に応えてくれる店舗を求めて、実に五つもの店舗を渡り歩く。向学心に燃える若き亮吉は、横浜市立横浜商業補習学校の夜学部(現在の横浜商業高等学校)に入学し、優秀な成績(総代)を修めて卒業する。また、仕事の面においても懸命に努力を重ね、その道の知識と信用を築き上げていくのである。

こうして亮吉は、明治四十一年(1908年)の十一月一日、ついに個人で松村商店を創業することとなる。幼心に家の復興を思い、幾多の困難や精神的試練を乗り越え、努力に努力を重ねた上に、「松村株式会社」の歴史はスタートしたのである。

2.堅実経営

松村商店 創世記 大正初期 馬車道通り (横浜市史資料室所蔵)

松村商店 創世記
大正初期 馬車道通り (横浜市史資料室所蔵)

大正四年(1915年)の下期頃からは、第一次世界大戦の好影響による需要の拡大もあり、亮吉は郷里の友人の勧めで「輸出綿縮」を取り扱うようになった。

戦争による特需は続き、大正六年頃からは、あらゆる物資に対して注文が殺到し、世間のあらゆる物の相場が跳ね上がった。生糸や綿糸、織物しかりであり、松村商店は「とにかく品物さえあれば儲かる」という時代を経験することとなる。

大正八年(1919年)には、当時の資本金が二十万円であったのに対し、商品評価額では三十万円以上にまで達する。しかし、大正九年(1920年)一月二十一日を高値に相場は大反動を起こし、連日暴落が続く。松村商店も取引先の倒産等により、少なからず被害を受ける。この経験によって亮吉は、大きな相場の時には余程注意して相手を見てかからなければならないということを痛感し、己の油断と過信を猛省することとなる。

3.関東大震災

八十年 夢の如く去りぬ 関東大震災で被害を受けた横浜正金銀行 (横浜市史資料室所蔵 [左右田宗夫家文書] )

八十年 夢の如く去りぬ
関東大震災で被害を受けた横浜正金銀行
(横浜市史資料室所蔵 [左右田宗夫家文書] )

「大地は波を打ち、建物は倒壊する。瞬時にして全市は猛火に包まれた。私の店舗は前に倒れ、私は店から投げ飛ばされた。(中略)路上は阿鼻叫喚天地晦冥である。私は猛火をくぐり橋の欄干を渡り、くもの巣のような電線をぬって、やっと野毛三丁目の自宅に辿り着いた。(後略)」 (松村亮吉回想録「八十年夢の如く去りぬ」より)

この関東大震災により、松村商店も甚大な被害を免れず、解散し社員全員を解雇せざるを得なくなった。大正十二年(1923年)当時、震災保険は無く、地震による火災に対しては火災保険も利かず、僅かに見舞金を受け取るだけであった。

4.松村商店 再開

松村商店 再建方針 横浜弁天通り (横浜市史資料室所蔵)

松村商店 再建方針
横浜弁天通り (横浜市史資料室所蔵)

関東大震災による大きな損害を受けた松村商店は、解散する。全社員を解雇し、亮吉は独り身になったものの、震災前に、松村商店が綿縮関係で佐野地方の機屋に振り出した支払手形の後始末をどうするかという問題が残ったが、「他人に迷惑をかけぬ」という亮吉の信念が、個人でこの支払を引き受ける決意を固めた。

こうして、震災により再び大変な試練を受けることとなった亮吉ではあったが、すぐに「これで負けてはならぬ」と大正十二年(1923年)松村商店の再建に乗り出す。母から震災見舞金を受け取った亮吉は、新たに横浜市中区住吉町十二番地に店舗を構え、個人で松村商店を再開。その再建方針にある「手形取引をせぬこと」は、現在に至るまでなお受け継がれている。

5.戦時下の歩み

二代目社長松村千賀雄    戦時下の弁天通り (横浜市史資料室所蔵)

二代目社長松村千賀雄   
戦時下の弁天通り (横浜市史資料室所蔵)

昭和十二年(1937年)、日中戦争が始まり、日本は混乱への道を歩み始め、対米輸出の事業は徐々に難しくなっていき、昭和十六年(1941年)一月、松村商店は個人経営を有限会社に改めたが、同年の十月には、国家計画経済統制により店舗を閉鎖する。

昭和二十年(1945年)八月十五日。日本の敗戦によって太平洋戦争は終結。統制が解除され、一切が開放されると同時に、貿易を推進することが国家的に重要な事柄となった。

敗戦後の激動がまだ収まりきらない昭和二十二年(1947年)、亮吉は、国内向け販売を業務とする横浜内地織物株式会社を設立し、繊維貿易公団が保有していた在庫を入札により買い取り、プリント用生地として東京地区の織物問屋に販売を始める。同時に、戦前以来の絹織物の輸出事業への取り組みも再開していく。

なお、昭和二十四年(1949年)頃、後の二代目代表取締役社長となる松村千賀雄(現監査役)が横浜内地織物株式会社に入社している。

6.株式会社松村商店の設立

合同庁舎 70年代の東京営業所

合同庁舎
70年代の東京営業所

昭和二十五年(1950年)六月、松村亮吉を発起人代表とする七名が発起人総会を開き、同年九月一日、資本金二百万円を以って「株式会社松村商店」を設立した。事務所を横浜内地織物株式会社と同じ、中区北仲通の帝蚕ビルの五階に置き、社員は十五名からの発足となった。なお、翌年、横浜内地織物株式会社を吸収した。

昭和二十年代後半は、川俣・飯野・小高地区との取引が順調に拡大し、今後の事業の足場を固めるため、昭和二十七年(1952年)、川俣事務所を設置する。翌年には、小伝馬町に事務所を借り受け、東京営業所も設置する。東京営業所は、その後日本橋へと移転し、さらに平成十年(1998年)に浜松町に再度移転して現在に至っている。

昭和三十七年(1962年)第二代代表取締役社長に、長男の松村千賀雄が就任し、創業者の松村亮吉は取締役会長に退いた。

7.町内清掃

町内清掃活動 関内牧場の様子 (奥村泰宏氏 撮影)

町内清掃活動
関内牧場の様子
(奥村泰宏氏 撮影)

昭和三十五年(1960年)から、松雄会(松村株式会社 社員の会)の地域奉仕活動の一環として、住吉町一帯を清掃する町内清掃活動が始まる。当時の横浜、関内一帯は、「関内牧場」と呼ばれるほどに雑草の生い茂る野原が多く、ゴミの不法投棄や建築現場の残材、残土が目に余るほど捨てられている状態であった。松雄会による清掃は、それらの空き地等から、徐々にその活動範囲を広げていく。また、昭和三十九年(1964年)には、亮吉の呼びかけにより、「住吉町町内会」が結成され、亮吉はその初代会長に就任する。

この地域奉仕活動は、以来四十年を経た現在に至っても、月に一度のペースで続けられている。また、当初は松雄会だけで行っていた活動であったが、町内会、松村ビルのテナントの方々等の協力も集まり、その活動内容は一層充実したものとなった。
(長年の活動により、神奈川県知事賞、横浜市長賞、環境大臣表彰等の表彰の栄誉に浴する)

→ 「町内清掃の歴史 (地域活動)」もご覧ください。

8.テナントビル経営

日本大通ビル 松村ビル 本館

日本大通ビル
松村ビル 本館

終戦後しばらくの間は事務所を帝蚕ビル内に置いていたが、関内地区の接収解除とともに松村第一ビルを建設し、昭和三十年(1955年)に横浜市中区住吉町一丁目に移転。昭和三十三年(1958年)には松村第二ビルを建設するなど、事業規模の拡大とともに、自社ビル等の不動産設備への投資も積極的に行なっていく。

昭和四十三年(1968年)、松村第一ビルを間に挟んで第二ビルの反対側に五階建ての松村第三ビルを建設。続いて、昭和四十七年(1972年)には松村第一ビルと第二ビルを取り壊し、その跡地に現在の松村ビルの建設に着手し、昭和四十九年(1974年)に松村ビルが完成すると、松村第三ビルから事務所を移転する。
昭和五十五年(1980年)には、横浜公園の隣に日本大通ビルが完成。昭和五十七年(1982年)には、取り壊した松村第三ビルの跡地に松村ビル別館が建設され、ビル管理事業の一連の体制が整った。

なお、昭和五十三年(1978年)には、松村ビルのすぐ近くにある相生町の土地を購入し、駐車場として整備して有料駐車場の事業を開始する。

9.ユニフォーム分野への進出

当社取り扱いユニフォーム(当時)

当社取り扱いユニフォーム(当時)

松村株式会社は、これまで主力としてきた絹織物や絹製品のほかに、新たな商品を対象とした多角経営に乗り出す方針を探り始める。その第一歩としてスタートしたのが、働く人々が着用する作業服分野への進出である。

平成五年(1993年)頃よりバブル経済が崩壊し、ユニフォーム業界ではその影響を受け、苦戦を強いられる時期も続いたが、松村株式会社では建設業向けから、他業種へと販売のシフトを広げ、また、作業着だけでなく事務服・介護・防災用品など取扱商品の範囲を広げつつ、現在に至っている。

平成十二年(2000年)三月、長男である松村俊幸が松村株式会社 第三代代表取締役社長に就任する。第二代代表取締役社長の松村千賀雄は監査役に就任。

10.創業100周年からの出発

みなとみらい写真 ACTION 100

みなとみらい写真
ACTION 100

明治四十一年(1908年)に個人商店から出発し、平成三〇年(2018年)には創業110周年を迎えました。新しい100年への更なる成長、発展の為、「企業は人なり」と言われる通り、より良い人材を育成し、皆様から愛される会社へと日夜努力を続けております。

百年という時間は、絹、繊維業界に限らず、日本国内、世界中のあらゆる環境に対して大きな変化をもたらした。その激動の時代の中で、創業以来、経営者や社員の努力、得意先や仕入先のご支援・ご協力があって、松村株式会社は事業を進めてこれたのである。

新たな時代の要請に応え、役立ち、力強く飛躍していくために、伝統の堅実経営を根幹にして、松村株式会社は挑戦を続けていく。

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